3階からダイブ編10(ファイナル)

退院に向って

さて、上半身を起こせるようになると未来も少しは明るく見えてきた。車椅子の事も覚悟は出来ていたが、しかし何処かで歩く事も考えていただろう。カッコいい車椅子も事も夢は見ていたのも事実。どんな車椅子をカスタムしようかと考えていた。
高校を卒業してから車椅子の人々と触れて付き合う事が多かった。アパートで一緒に住んでいた事も2度ほどあった。多少ならずともハンデというものがある人々をごく身近に感じ自分なりに受け止めてきた。だから、明確なビジョンが見え、自分もハンデというものを持つ事をそれなりに受け止める事が出来たのだろう。冒険心がワクワクとうずく事もあった。ひとつの自己防衛かもしれないけれど。
まー上半身が動かせる事が出来れば活動の幅も広がる。食事が起きて食べれる。体が重力に慣れれば車椅子に乗れる。そうすれば何処でも行く事が出来る。だから1日のうち何回も手の力で上半身を起こし上半身の力と重力に対する血流等の抵抗力を付けた。マッサージ師のOさんも心強い人だった。絶えずいろんなアドバイスをくれた。
頭に突き抜ける痛みが引くと車椅子に乗り活動した。トイレも何回も行けるようになり。病院の近所の【魚河岸料理屋―K―】も昼間の仕込みの時間に片道30分位かけて行った。もちろん酒は呑んでいない。そしてOさんからのアドバイスの『足を伸ばして膝の裏に何かを置きそれを足の力で押す。』というのを一日何千回もやった。つまり、膝を伸ばし立つときに膝を途中まで伸ばすのは太腿の大腿四頭筋だが最後にキュッと膝を伸ばすのが膝の周りの筋肉だ。だから、そこを鍛えないと歩く事が出来ないと言うアドバイス。車椅子生活を受け入れつつ自分の可能性も信じリハビリも力を入れた。そのお蔭か気が付くと歩く事が出来た。松葉杖や手首を固定する杖を使いたいのにマッサージ師のOさんは『回復が遅くなる』と言い使用を許さず、高齢者が使うL字の杖を使わせた。私はその中でも竹の杖をチョイスした。車椅子が使えなくなるのも正直寂しかったが取り上げられると何処までも歩かされた。始めは病院の周りを一周。その時にオバサンに声を掛けられ『医者で治せないものは神様に頼みましょう』と【○○の光】と言う如何わしい宗教に勧誘されるというオイシイ体験もした。終いにはOさんに『一駅先のドコモショップへ携帯料金を支払いに往復歩いていく』という荒行も言い付けられた。
そんな甲斐あって11月の中旬には退院していた。入院していたのは1ヶ月半位だった。そのときもOさんの指令がある。『いいか、1週間後に仕事復帰したいと院長に頼め。じゃ無いといつまで経っても復帰出来ない。仕事の体力は仕事で付けろ。仕事の体力は他では付けられない。1週間は休んでも良い。』そして他のヘルパーには『いいか。あいつに本当に仕事復帰を望むなら1週間後から働かせ、それをサポートしなさい』と指令を出した。
退院には、今は亡きCHICHIZOUと弟のMAKOZOUが来た。退院後、その足で2人を連れて最初に向ったのは【魚河岸料理屋―K―】だった。Kへの挨拶と家族へのお礼を込めて。
その帰り道に気が付いたが都会って座って休む場所が無いのね。新宿の百貨店も!体力が無いこの体にはキツイのだよ。高齢者の気持ちがわかった気がした。
 

エピローグ

はじめ医者は歩けなくなる可能性があると私の周りに言っていた。今でも院長は仕事に復帰できるとは奇跡だと言っている。奇跡を起こしたのは自分だ!!・・・と言いたいが、そうではない。このとおりOさんを始め職場や親友や出会った患者さん達など様々な人達の気持ちに応えてここまで来たのだ。
あんな生き恥さらして、よくこの病院で仕事が出来るねと言われる事がある。しかし、このまま病院を辞めたら、逃げたら入院中に今まで出会った患者さん達を裏切る事になる。オムツをしようが、人の手を借りなくては生きられない体になっても、あなたの人間としての価値は今までとまったく変わらないと言っている私達が逃げ出す事は出来ない。復帰して立派に働いている姿を見せる事が患者のまたそういった人達の励みになるのだと思う。でないと今までしてきた事が否定されてしまうのだ。
また、そういったことがわからない人達や後輩にこの背中を見せる事が必要なのだ。
そして今こうしてパソコンに向っている。